MERCHANDISE
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皇居での御進講をもとに寄稿。著者の仏教理解を簡潔に、しかも余すところなく述べた、定評ある名著。
序
第一講 大智
第二講 大悲
判型・ページ数 4-6・126ページ
1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。
差別は、誰かが作りあげたものではなく、「自分」の心が作り出している。
利害を現したあからさまな差別から、「かわいそうな人」といったやさしさや思い遣りに隠された意識されない差別まで、さまざまな差別の裏に隠れた自己中心的な罪悪性を明らかにする。さらに、自己中心性を克服する道を示して、あたたかい心で繋がった人間の連帯と、真の平等社会の実現を説いた講演録。
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マイクロアグレッション等にご興味ある方にも推薦。
一 人間、この深重なるもの
一、病めるもの/二、意識より深い罪業性/三、いのちが抱える矛盾/四、自分は正しいという罪/五、宗教心が開く世界/他
二 真に私を支えるもの、生かすもの
一、まあまあという意識/二、人生に対する態度決定/三、まいらせ心わろし/四、見つめあうということ/五、自身の在り方を悲しむ心/他
三 願いによって開かれる平等社会
一、差別心に気づくことのない差別/二、差別意識を増幅するこだま/三、責任転嫁の生き方/四、ざわめきに生きる鈍感さ/五 差別するものの問題/他
資料「水平社宣言」「業報に喘ぐ」
あとがき……蒲地義秀(真宗大谷派普賢寺住職)
判型・ページ数 A5・116ページ
1931年、京都市に生まれる。大谷大学文学部卒業。大谷専修学院講師、教学研究所所員、真宗教学研究所所長を歴任。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。2008年11月21日逝去。主な著書は、『宮城顗選集』全17巻、『正信念仏偈講義』全5巻、『“このことひとつ”という歩み―唯信鈔に聞く―』『後生の一大事』『念仏が開く世界』『真宗門徒の生活に自信を持とう』『僧にあらず、俗にあらず』(法藏館)など。
日本を代表する僧侶である親鸞は、なぜ自らを「非僧非俗(僧侶でもなく、俗人でもない)」と宣言したのか。有名なその言葉に導かれ、あらゆる縛りから解放されて、ありのままに生きるとはどういうことかを説いた名講話。
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非僧非俗の精神
俗世間を生きることの意味/国が求める僧としての型/非僧非俗は「人間とは何ぞや」という問いかけ/外道とは自分の外なるものに寄りかかる道/生き方に迷う意味/退屈の裏に感動を求めている/求めていればこそ、空しい/私をうながし続けていたものに出遇う/本当に生きたことがあるか/事実を受けとめる勇気/わかったという立場が破られる/どうかその道意に目覚めてほしい
ねんごろの心――『御消息』に学ぶ――
言葉の響きを聞く/言葉は声である/「往生」とはただ亡くなったことだけをいうのか/生き方に迷うことは、人間に与えられた能力/「往生」は名詞でなく動詞である/「ねんごろ」とはいのちを共にしているということ/つながりをいのちとして生きている/いのちの願いによってあなたは生れ出た/この私を私として愛する/いのちの叫びを聞き取る/さあ、いのちの事実に帰ろう
あとがき……松林 了(真宗大谷派西岸寺前住職)
判型・ページ数 A5・142ページ
1931年、京都市に生まれる。大谷大学文学部卒業。大谷専修学院講師、教学研究所所員、真宗教学研究所所長を歴任。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。2008年11月21日逝去。主な著書は、『宮城顗選集』全17巻、『正信念仏偈講義』全5巻、『“このことひとつ”という歩み―唯信鈔に聞く―』『後生の一大事』『念仏が開く世界』『真宗門徒の生活に自信を持とう』『僧にあらず、俗にあらず』(法藏館)など。
金子先生の生前最後の講話で語られる他力念仏の教えは、人類の救いを根源的に明らかにする永遠不滅の教えである。『歎異抄』の真髄を簡潔な言葉で語りかける入門書の決定版。
師訓篇
第一講 人生観の基本的な意義
歎異抄は日本の聖典
歎異抄の構成
人生観と生死観
人生観と人間観
往生極楽の道とは
人と人との間柄
愛憎の悲しみ
すべての人の救われる場
浄土は個人的ではない
生と死の恐れ
人生における念仏の意味
第二講 仏教の世間化か世間の仏教化か
死と生きがい
人生と摂取不捨
罪悪観
利他の心
大乗教のめざすもの
時代は仏教の要求に応ぜよ
慈悲とヒューマニズムと平和の問題
世間の仏教化と浄土
追善追福をしない
教育の心
時代とともに救われる道
第三講 人生を生きる根拠
人生観から人間観への深まり
断念 あきらめ の教え
障り多い人生と無碍の一道
幸・不幸に支配されない
善悪を超える
断念のない寂しさ
念仏の実践は非行・非善
人生に喜びを与えるもの
仏に喜びを与えるもの
仏に予定される世界
名残りを惜しむ人生
『歎異抄』の良さ
歎異篇
第四講 宗教の実習
知識人に敬遠される歎異篇
宗義学の嫌われる理由
歎異された二つの異義
信心で救われるか、念仏で救われるか
宗教の実習
仏の大悲の心の表れ
南無阿弥陀仏とお呪い
他力の念仏
名号の功徳と念仏の功徳
体全体が念仏になってしまった
第五講 凡夫の救われる道
『歎異抄』の問いかけ
学問でも道徳でもない道
学問と信心
知識の限界を知る知識人
他人の口を封じるための学問
来世の往生
煩悩具足の身をもってさとりをひらく
六根清浄
有限なるこの世と無限なる浄土
普遍なるもの
凡夫の救われる道
第六講 宿業と自由
宿業にあらずということなし
宿業と自由
生業と道心
道心
悲しみを感じる
悲しみを通して無限を知る
信心歓喜
限りなき願いに生きる
『歎異抄』本文
あとがき
判型・ページ数 4-6・211ページ
1881年新潟県高田に生まれる。真宗大学卒業。1911年浩々洞の雑誌『精神界』の編集担当。東洋大学教授、真宗大谷大学教授、広島文理科大学講師、1951年大谷大学名誉教授に就任。1976年10月20日逝去。主著 『金子大榮著作集』(春秋社)、『金子大榮選集』(コマ文庫)。
親鸞浄土教の現代的意義を、大乗仏教の根本思想から明確に説き明かした仲野教学待望の集大成『仲野良俊著作集』から名著復刊。(全三巻、ボックス付属、分売不可)https://hozokan.tameshiyo.me/9784831865847(試し読み)
【Ⅰ】
序 文
『正信偈』の組織
『正信偈』という題目
偏りの心を離れる
総 讃
無量寿
不可思議
弥陀章
法蔵菩薩の物語
南無阿弥陀仏の歴史
嘆仏偈と重誓偈
南無阿弥陀仏という名
十二光
無量光、無辺光、無碍光
禅三昧を食とす
無対光、炎王光
清浄光、歓喜光、智慧光
不断光
難思光、無称光、超日月光
本願名号正定業
自己を信知する
釈迦章
如来出世の本懐
信心の利益
菩薩の歓喜地
喜愛心
不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉廻入
摂取心光常照護
信心の喩え
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人
分陀利華と名づく
結 誡
邪見僑慢悪衆生
僑慢の心
【Ⅱ】
龍樹章
七高僧の伝統
中国を通って日本へ
龍樹菩薩
有無の見を破る
証歓喜地生安楽
難行道から易行道へ
阿惟越致にいたる
易行道の方便
難行の陸路、易行の水道
憶念弥陀仏本願
唯能常称如来号
天親章
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顕真実
真実功徳
光闡横超大誓願
浄土真宗の教相
広由本願力廻向
一心を彰わす
帰入功徳大宝海
大会衆の数に入る
得至蓮華蔵世界
諸苦を具足する凡夫
遊煩悩林現神通
曇鸞章
本師曇鸞菩薩
焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解
念仏の伝統
報土因果顕誓願
往還廻向由他力
本願力の廻向
還相廻向
正定之因唯信心
無碍光如来の光明
惑染凡夫信心発
わが身の業にうなずく
必至無量光明土
仏法には無我にて候
他力の働く場所
菩薩道としての還相廻向
道綽章
道綽禅師の時代
『観無量寿経』中心の教学
道綽決聖遭難証
時機相応の教え
唯明浄土可通入
万善自力貶勤修
教念弥陀専復専
三不三信誨慇懃
一生造悪値弘誓
至安養界証妙果
【Ⅲ】
善導章
善導独明仏正意
古今楷定
大権の聖者か実業の凡夫か
矜哀定散与逆悪
定心・散心に迷う
光明名号顕因縁
定散をこそ矜哀する本願
両重の因縁
開入本願大智海
実大乗、権大乗の内実
行者正受金剛心
滅度と涅槃
金剛心を正受する
慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍
信忍によって凡夫にかえる
即証法性之常楽
源信章
源信僧都と『往生要集』
天台を捨てず、念仏に生きる
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
寤寐に忘るることなかれ
源信僧都の念仏の深さ
報化二土正弁立
懈慢界
専雑執心判浅探
極重悪人の自覚
極量悪人唯称仏
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我
源空章
法然上人との出会い
本師源空明仏教
憐愍善悪凡夫人
選択本願弘悪世
還来生死輪転家
速入寂静無為楽
寂静無為の楽
結 勧
弘経大士宗師等
念仏の伝統
唯可信斯高僧説
解 題
後 記
判型・ページ数 A5・1100ページ
1916年、京都市生まれ。1939年、大谷大学文学部卒業。大谷大学講師、北海道教学研究所所長、真宗大谷派教学研究所所長など歴任。真宗大谷派・専念寺元住職。1988年、逝去。 著書に『浄土真宗―往生と不退―』(東本願寺出版)、『深層意識の解明』、『解読 易行品』、『仲野良俊著作集』(いずれも法蔵館)などがある。
「二十世紀の偉大な賢者ラマナ・マハルシは、一九三〇年代に、のちに彼の恩寵によって真我実現することになる弟子のアンナーマライ・スワミから、『真我実現のために読むべき本を教えてください』と求められた。
そのとき、マハルシが挙げた六冊の聖典(Kaivalya Navanitam, Ribhu Gita, Ashtavakra Gita, Ellam Ondre, Swarupa Saram, Yoga Vasishtha)の中でもマハルシが最も愛し、頻繁に教えを引用し、重要視した聖典が『ヨーガ・ヴァーシシュタ』である。」
(「訳者あとがき」より)
「この本はただの本ではない。この聖典はあなたに真我実現を与えることのできるグルであって、ただの本ではないのだ。だから最高位の敬意を払いなさい」
――H・W・L・プンジャジ(パパジ)
「この聖典を学び、その意味について黙想する人に、苦行や瞑想やマントラの必要はない。なぜなら、この聖典を学べば解脱は確実だからだ」
――賢者ヴァシュシュタ
「満足とは何か? 求めても得られないものへの願望を放棄し、求めずして得たものに満足すること、そのために得意がることや憂鬱になることもない―それが満足である。自己に満足しないかぎり、人は悲しみに支配されてしまう。満足が生まれると、清らかなハートが花開く。何も所有せずに満足する人は、世界を所有するのだ。」
「ラーマよ。無限の意識のエネルギーが存在し、それは常に活動している。ただそれだけが、未来に起こる避けることのできない出来事の正体なのだ。なぜなら、それは時間の中のすべての時代を貫いているからだ。宇宙の中のあらゆるものの本性は、それによって運命づけられている。」
「心という鬼に打ち勝つには、自分自身の努力で真我の知識に達し、心が求める快楽への渇望を棄て去るしかない。だが、正しい態度を培えば、子供が一つの事から別の事へと簡単に注意を転じることができるのと同じように、まったく努力せずにそれを達成することができる。渇望を棄てきれない者に災いあれ。ただ無欲だけが人にとって最善の道なのだ」
「私の教えは、この幻想の世界の実在性を固く信じ、その世界の快楽を追い求めるがゆえに知性を不能にされてしまった人のためにあるのではない。
見ることを拒む人に、色鮮やかな森を見せようと努力する愚か者がいるだろうか? ハンセン病で鼻を失った人に、さまざまな香りの違いを識別する方法を教えようとする人がいるだろうか? 酔っ払いに、深遠な形而上学を教える人がいるだろうか? 村の出来事について、火葬場に横たわる死体に尋ねる人がいるだろうか? もしそんな愚か者がいたとしても、彼を思いとどまらせる人がいるだろうか? 言葉を発することも知覚することもできない心を治められない無知な者を、誰が導けるというのか?」
「『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、多くの物語や解説を織り交ぜながら究極の教えを説いている。それは哲学者だけでなく、現代の心理学者や科学者にさえ驚嘆すべき発見を与えることだろう。現存する聖典の多くは、神が帰依者に向けて説いたものだが、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は神に向けて説かれた教えだ。それは賢者ヴァシシュタが、神であるラーマに授けた教えなのである。
世界創造に関する真の理解をもたらす『ヨーガ・ヴァーシュシュタ』の哲学は、カシミール・シヴァ派の教義に極めて近く、その教えの核心は、『すべては意識である』に尽きる。それはあなたが見る『あるがまま』の物質世界をも含んでいる。これが絶対真理である。世界は意識の戯れに他ならないのだ」 (スワミ・ムクターナンダの「序文」より)
(以上、本文より)
スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ Swami Venkatesananda 【英訳】
1921 年、南インドのタンジョールに生まれる。ボンベイやカルカッタで働いた後、リシケーシにてスワミ・シヴァーナンダの弟子となり、従者として17年間、師に奉仕する。
1961 年、グルの指示により、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、モーリシャス島に赴き講話と瞑想指導をする。
1982 年、南アフリカのヨハネスブルグにて逝去。
訳書に"The Song of God - Daily Readings From TheComplete Bhagavad Gita"、 "Enlightened Living - The Yoga Sutra of Patanjali"、"Vasistha's Yoga"。著書に"Insights and Inspirations"、"Christ, Krishna and You"、"Total Love"、"Multiple Reflections Talks on Yoga Vasistha"、"Lectures on Raja Yoga" 他がある。
福間巖 Iwao Hukuma 【邦訳】
1960年、萩市にて誕生。1974年より北鎌倉臨済宗円覚寺にて6年間参禅。
1979年、インド仏跡巡拝の折、ブッダガヤにてラマナ・マハルシの教えに出会う。
1981年、玉川学園大学英米文学部卒業。山梨県曹洞宗瑞岳院僧堂にて1年間参禅。
スリランカ、カンドゥーボーダ仏教僧院にて1年間瞑想を修す。
米国にてデザイン業、欧州にて瞑想指導および法話。長年インドの聖地に暮らし、J. クリシュナムルティ他多くの聖賢と出会う。
1992年、北インドにてプンジャジと出会い、5年間をともに過ごす。聖山アルナーチャラの麓に在住。
訳書に『ラマナ・マハルシとの対話』他多数。
はしがき
教行信証について
第一章教行信証とはどんな書物か
一 教行信証のなりたち
二 教行信証の性格
第二章教行信証の何か
一 往相回向と還相回向
二 真実の教とは何か
三 教行信証の順序
第三章行とは何か
第四章真実の信
一 三心
二 二河白道
三 横超断四流
第五章現生正定聚
第六章抑止門
第七章証について
第八章還相回向
一 還相回向とは何か
二 還相回向の活動とその根底
三 広略相入
四 一法句とは何か
五 善巧摂化
六 願作仏心即是度衆生心
七 巧方便回向
八 明楽勝真心
第九章真仏土について
一 真仏土
二 真仏土の本質
三 一切衆生悉有仏性と成仏
四 仏性を見るとは
第十章方便化身土巻
一 方便化身土の願
二 第十九願
三 顕彰隠密
四 第十九願の機
五 第二十願の機
六 第十八願の機
七 三願転入
八 末法
第十一章 化身土巻について
一 邪教批判
二 弁正論について
三 後序について
判型・ページ数 4-6・232ページ
明治42年鹿児島県に生まれる。龍谷大学文学部宗教学科卒業。昭和24年文学部教授。昭和39~44年龍谷大学学長。昭和56年勲三等瑞宝章を受ける。龍谷大学名誉教授。文学博士。平成13年5月逝去。 著書 『講解教行信証』(全4巻・補遺篇)、『浄土』、『浄土の哲学』、『宗教の本質』等。
仏教学の大家・安田理深の、「正信偈」だけでなく『教行信証』全体にも相通じる、初公開の名講義録。
≪第一巻≫
序文
第一章 序説
1、「正信偈」と「願生偈」
2、「正信偈」御制作の動機
3、偈頌と問答
4、諸仏の伝統と知恩報徳
第二章 総讃
1、帰命無量寿如来
第三章 弥陀章
2、法蔵菩薩因位時
3、本願名号正定業
第四章 釈迦章
4、如来所以興出世
5、摂取心光常照護
6、獲信見敬大慶喜
第五章 結誡
7、弥陀仏本願念仏
≪第二巻≫
第六章 依釈段 総讃
8、印度西天之論家
第七章 龍樹章
9、釈迦如来楞伽山
第八章 天親章
10、天親菩薩造論説
11、広由本願力回向
12、帰入功徳大宝海
≪第三巻≫
第九章 曇鸞章
13、本師曇鸞梁天子
14、天親菩薩論註解
15、惑染凡夫信心発
第十章 道綽章
16、道綽決聖道難証
17、三不三信誨慇懃
第十一章 善導章
18、善導独明仏正意
19、行者正受金剛心
≪第四巻≫
第十二章 源信章
20、源信広開一代教
21、専雑執心判浅深
22、極重悪人唯称仏
第十三章 源空章
23、本師源空明仏教
24、還来生死輪転家
第十四章 結勧
25、弘経大士宗師等
あとがき
判型・ページ数 A5・1171ページ
仏教哲学者、真宗大谷派僧侶。1900年、兵庫県生まれ。青年時代は禅やキリスト教などを学ぶが、金子大栄の著作に影響を受けて1924年大谷大学に入学。曽我量深に師事する。1935年頃より、京都で学仏道場「相応学舎」を主宰し、唯識論や親鸞思想などの講義を行った。生涯無位無官を貫き、在野にて自己の思索を深めるとともに、後進の指導にあたり多くの学生・僧侶らに影響を与えた。1982年逝去。
親鸞の他力の浄土教について論じた大拙の英文論文の邦訳。
自らの力で悟りを求める自力教としての禅。仏の慈悲にすがって、往生成仏を願う他力教としての浄土教。
両者は、異なる方法で成仏を実現する教えであった。
親鸞によって開顕された横超他力の浄土教は、凡夫が自らの分別を放擲して仏の慈悲心に直接し、法そのものに包まれて生きる道を開くことで、本来の仏道としての今現在のさとりを実現したと説く。
最晩年の弟子である訳者が大拙の真宗理解に基づき訳出する。収載論文の半数は初邦訳!
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序文(佐藤平顕明)
Ⅰ
禅と浄土――二種の仏教経験
一、信仰的仏教と思索的仏教
二、浄土門(他力)と聖道門(自力)
三、他力――阿弥陀仏による救済
四、自力――有限を超えて無限に
五、浄土の信の定型句としての念仏
六、思弁型の禅念仏
七、黙祷的タイプの念仏
八、本願への信の重要性
九、二元の世界を破る念仏
十、信仰タイプの禅タイプへの接近
真と禅――その対照
Ⅱ
真宗とは何か
一、自己とは何かという問い
二、ミリンダ王の問い
三、絶対的自己との出会い
四、親さまに出会った才市
五、機法一体を具現する念仏
無限な光
一、アミターブハ――無限な光の仏
二、光と娑婆と地獄
三、娑婆世界の「光明」
四、阿弥陀とその本願
五、本願と自己
名 号
一、阿弥陀仏が自分の名を広めようとした意味
二、阿弥陀仏の名を聞いて無生法忍をさとる
三、名号の力学
四、阿弥陀仏の心と完全に一体化する信者の心
五、私たちと共にある阿弥陀仏
Ⅲ
妙好人才市の研究
一、才市の宗教詩と内省的自己批判
二、「罪」意識の起源
三、才市の罪の概念
四、罪、個別的と集合的
五、才市と和解
妙好人
一、妙好人、浅原才市
二、才市の歌にみられる霊性的問いと答え
三、絶対的肯定と究極的実在の発見
Ⅳ
英訳『教行信証』への序(未完)
一、阿弥陀仏と極楽浄土の建立
二、法蔵の菩薩性と本願の意味
三、阿弥陀仏の大慈悲による往還の円環運動
四、有限から無限に超える横超
五、阿弥陀仏と一体の凡夫の発見
六、本源的力から生じる阿弥陀仏の願
七、法蔵菩薩の四十八願
八、他力――絶対的受動性の真実
九、限りない無礙の光明としての浄土
あとがき
判型・ページ数 4-6・296ページ
1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。
才市を中心に、偶像化されてきた妙好人たちの他力実践者としての真実の姿を明らかにする。
序
一 妙好人
二 妙好人と日本的霊性的なるもの
三 念佛生活の一ヶ月
四 才市の信仰内容
五 信仰に入るまで
六 信仰の健全性と中庸性-衆生済度
七 才市の内生活と南無阿弥陀仏
八 浄土と娑婆
九 親と子-花婿と花嫁
十 南無阿弥陀仏の本体
十一 くくり
付録
判型・ページ数 4-6・294ページ
1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。
原文に口語訳を付しつつ難解な仏典引用を解き明かし、親鸞の思想を丁寧に読み解く名著。
約50年振りに新装版として復刊。
序
一 総説
二 身心柔軟
三 涅槃の智慧
四 苦悩と安楽
五 師弟と善友
六 勝れた功徳
七 説聴の方軌
八 大悲の受施
九 法王の臣民
一〇 身心の教養
一一 さわりなき道
一二 菩提心
一三 大悲の行人
一四 釈迦と弥陀
一五 仏法あいがたし
一六 摂取と証誠
一七 護念の光
一八 宿業への光
一九 妙好人(上)
二〇 妙好人(下)
二一 弥勒の位
二二 無辺の同朋
二三 分限の生活
二四 涅槃の期待
二五 仏教の真宗
二六 真実と方便
二七 仏法と外教
二八 愚禿の悲歎
判型・ページ数 4-6・251ページ
1881年新潟県高田に生まれる。真宗大学卒業。1911年浩々洞の雑誌『精神界』の編集担当。東洋大学教授、真宗大谷大学教授、広島文理科大学講師、1951年大谷大学名誉教授に就任。1976年10月20日逝去。主著 『金子大榮著作集』(春秋社)、『金子大榮選集』(コマ文庫)。
唯識思想では、菩薩が仏になる道筋を、虚妄分別の止滅から意言分別の智慧の獲得として明らかにし、さらに、仏の正覚の智慧を、無分別智と無分別後得智に分けて明らかにすることで、自利利他を完成した仏の智慧の根本を明らかにしている。
唯識思想が説く仏の智慧を基本として、浄土教で説かれる法蔵菩薩と阿弥陀仏の根源的意味を明らかにすることで、往相回向・還相回向が説かれる意義を明確にする。
序文
第一章 「虚妄分別」と「意言分別」とは
一、ラトナーカラシャーンティの唯識説――虚妄分別の成立
二、虚妄分別(煩悩)と菩提について
三、虚妄分別とは何か
四、虚妄分別(迷い)から意言分別(智慧)へ
五、ラトナーカラシャーンティの、梵文『般若波羅蜜多論』の「菩薩の修道論」
六、「意言分別」も、「虚妄分別」のアーラヤ識の如く、種子を有する
七、「意言分別」とは何か
八、意言分別とはどのような分別であるか
九、意言分別と解脱(唯識の真観)
十、「虚妄分別」より「意言分別」へ、さらに「無分別智(唯識の真観)」へ――「蛇・藤蔓・四塵の譬」によって解説する
十一、「無分別智」の成立
十二、梵文『入無分別陀羅尼経』を引用して、「無分別智・無分別後得世間智」を解説する
十三、釈尊の「金剛座」での沈黙と、その後の伝道、説法の開始
十四、無分別智の行者は「唖人の如く」、無分別後得智の行者は「非唖人の如し」
十五、「無分別智」は無分別であるのに、何故、「智」であるか
第二章 『無量寿経優波提舎願生偈註』(浄土論)
一、『浄土論』の修行者は法蔵菩薩である
二、「一法句者謂清浄句」とは
三、一法(法身、無分別智、清浄句)と一法句(受用身と変化身、後得清浄世間智)について
第三章 曽我先生の法蔵菩薩=阿摩羅識説に菩薩像を問う
一、阿摩羅識(amalavijnana)とは何か
二、阿摩羅識という言葉が消えて「幻師」という言葉が現れる
三、「幻師」という言葉は『摂大乗論』に引き継がれる
四、菩薩は因果の相を、幻師の如く了別する
五、菩薩は無分別後得智・幻術師・受用身(仏身)である
第四章 唯識より浄土教の菩薩像を問う
一、「往相廻向」「還相廻向」について改めて問う
二、金剛法座の釈尊に「往相、還相」論は可能であるか
三、『浄土論註』の還相廻向に対する小川説批判
四、菩薩はすでに受用身(仏身)である
五、「巧方便廻向」について小川説を批判する――菩薩は衆生に先がけてすでに成仏している
六、「善巧摂化」と十波羅蜜
七、十波羅蜜とは何であるか
八、『大乗荘厳論』等より、浄土教の菩薩像を問う
九、菩薩の「往相廻向」「還相廻向」について
結び
資料
跋文
判型・ページ数 4-6・138ページ
昭和11年、石川県白山市に生まれる。昭和34年、大谷大学文学部仏教学科卒業。昭和39年、名古屋大学大学院印度哲学専攻、博士課程単位取得。名古屋大学文学部助手、名城大学教授を歴任。 現在、名古屋大学名誉教授。文学博士(論文博、名古屋大学)。真宗大谷派嗣講。瑞宝章受章。
主な著書に、『インド後期唯識思想の研究』、『アビダルマ仏教とインド思想』(共著)、『「いのち」の意味』、『真宗の「命観」――私たち人間が仏となること』、『「人間の悪」に対する裁きと救い』、『悪人、善鸞は救われましたか?』、『文学者 三島由紀夫と仏教』、『世親の浄土論と瑜伽行唯識』、『浄土論の唯識思想』ほか。
「私とは誰か?」という普遍的な問いを真正面から捉え、
“意識だけが唯一実在する真理である"という教えを、
さまざまな問題における彼の観点を要約した質疑応答の形式で紹介しています。
「心が静まれば、世界全体が静まる。心がすべての原因である。
それが静まれば、本来の自然な状態はひとりでに現れるだろう。」
第一部 真我 The Self
第1章 真我の本性
第2章 真我の自覚と無知
第3章 ジニャーニ(賢者)
第二部 探究と明け渡し Enquiry and Surrender
第4章 真我探究―理論
第5章 真我探究―実践
第6章 真我探究―間違った認識
第7章 明け渡し
第三部 グル The Guru
第8章 グル
第9章 沈黙とサットサン
第四部 瞑想とヨーガ Meditation and Yoga
第10章 瞑想と集中
第11章 マントラとジャパ
第12章 世界の中で生きる
第13章 ヨーガ
第五部 体験 Experience
第14章 サマーディ
第15章 幻影と超能力
第16章 困難と体験
第六部 理論 Theory
第17章 創造の理論と世界の実在性
第18章 輪廻転生
第19章 神の本質
第20章 苦しみと道徳
第21章 カルマ、運命、自由意志
〈特別収録〉
私は誰か? Who am I?
現代のウパニシャッドとも呼ばれる聖典級書籍。正式の教育を受ける事もなく、ボンベイの外れの村に、平凡に雑貨屋を営みながら暮らしていたが、グルに出会いわずか3年で真我を実現した偉大なる覚者。
1973年の初版以来、現代随一の聖典と絶賛され、読み継がれてきた
ニサルガダッタ・マハラジの対話録、本邦初訳!
ラマナ・マハルシの「私は誰か?」に対する究極の答えがこの本にあります。
私は在る。
そして私が在るゆえにすべては在る。
「私は誰か?」という質問に答えはない。
いかなる体験もそれに答えることはできない。
なぜなら、真我は体験を超えているからだ。
シェリー・ニサルガダッタ・マハラジ